
1970年、著作権法の改正と高度情報化の波により社会構造は大きな変化を迎えている最中でした。
マニアに大絶賛され世界的な大ヒットになったApple II、社会現象になったインベーダーゲーム、確実に浸透したコンピューターという道具は使い手の意識の変化を待たずに加速を続けていました。
1980年代、情報化へ進んでいく時代に一体何があったのでしょうか。
経済成長と新技術の恩恵
技術の進歩により一般家庭における音楽の利用形態にも大きな変化がありました。
1981年(昭和56年)6月の文化庁第5小委員会の報告書にその内容を見る事ができます。
(1)録音機器の保有状況
総理府調査によれば、一般世帯における録音機器の保有状況については、全体の78.0%が何らかの録音機器を保有している。このうち、「ラジオ(テレビ)付きカセットテープ・レコーダー」が54.0%と最も多く、次いで「カセットテープ・レコーダー」(38.6%)、「カセットテープ・デッキ」(16.0%)の順に多い。以上のようにカセット式のものが圧倒的に多く、オープンリール式のものは、レコーダー及びデッキを含めて7.8%であり、非常に少ないといえる。-中略-
(8)個人録音テープの貸借等の状況
総理府調査によれば、「レコードなどから録音したテープを知人・友人などの間で貸したり、借りたり、あげたり、もらったりしたこと」があるかについては、「ほとんど(全く)ない」と答えた者が調査対象者全体の73.5%を占め、「よくある」「時々ある」を含め「ある」と答えた者は21.7%である。「ある」と答えた者のうち、年令別では若年層ほど多く、特に15~24才では50%以上である。また、工業会調査によれば、レコード、テープなどを貸借、譲渡、交換などした経験のある者は調査対象者全体の32.4%であり、そのうち特に多いのは、「レコード」(18.1%)と「自分でレコード、ラジオ等から演奏を録音したテープ」(15.8%)である。貸借、譲渡などの相手方は、友人、知人との間が多く、例えば、レコード・ラジオ等から個人録音したテープで貸借、譲渡などしたもののうち、友人、知人間のものが83.8%を占めており、家族間のものは18.2%となっている。貸借、譲渡などの経験者の行う貸借、譲渡などの年間平均回数については、レコード・ラジオ等から個人録音したテープの場合、5.6回となっている。
三団体調査では、個人録音経験者のうちこの1年間において個人録音したテープを友人、知人間に貸したことがあるものは39.0%であり、また、譲ったことがあるものは14.9%である。
– 昭和56年6月 文化庁第5小委員会(録音・録画関係)
サンプリング調査の結果に対しこのような報告を記述しています。
(1)法第30条の許容範囲を超える録音・録画の実態等
録音・録画の目的は、工業会調査によれば、あとで見たり聴いたりするため、何度もくりかえして見たり聴いたりするため、いわゆる裏番組を見たいため(録画)とする者が圧倒的に多く、これらの目的での録音・録画については現行法上特段の問題はないと考えてよいものと思われる。しかしながら、「他人に頼まれた」録音(1.5%、工業会調査による。以下同じ。)については、法第30条が許容する私的使用のための録音には該当しないし、また、「ライブラリー(保存版)として保管しておくため」の録音(8.1%)・録画(19.5%)については、法第30条の解釈は分かれているものの、最も厳格な解釈をする立場からは、法第30条の趣旨を逸脱する行為であり、著作権等を侵害するものと考えられている。さらに「友人、知人に聞かせるため」の録音(4.4%)については、その友人、知人と録音を行う者との間に家庭内に準ずる親密な関係があり、かつ、人数的にも4~5人に限定された範囲内であれば、現行法上問題は生じないが、この範囲を超える場合には著作権等の侵害が生ずるものと考えられる。
– 昭和56年6月 文化庁第5小委員会(録音・録画関係)
この報告書には非常に重要な事が多く記述されています。
1976年(昭和51年)の第4小委員会でも複製における著作権法第30条の扱いについて慎重な運用が提案されており、旧来容易ではなかった私的な複製からの拡散で著作権が侵害されることについての対応についても複数の提案がなされています。
その中の一つが後の私的録音保証制度になる生テープへ賦課金を賦課する方法です。
これはWIPOでも提案されており世界的にも実施されたものですが、日本と同様に無関係な者にまで負担を課すことになる問題について衝突も多く、複製問題の根本的な解決にもならないものでもありました。
しかしこの時点では文化庁も各著作権管理団体にも有効な手立ては存在せず、まずは国民の理解を深める適切な措置を講ずるべきとしています。
カセットテープの時代においても既に違法複製の問題は顕在化しており、著作権法第30条における許容範囲について詳細に検討が行われていたのです。
この問題について1983年(昭和58年)の第1小委員会でも検討が行われていました。
1)従来の文献の複写業者に加え、最近のテープの高速ダビング業者の出現によつて著作者等の利益が害される事態が生じていることに鑑み、複製機器を設置し、営業として他人に利用させる者は当該複製について著作権法上の責任を負うものとする旨を規定する必要がある。
2)私的使用のための複製について著作権を制限している第30条については、既に著作権審議会第4小委員会(複写複製関係)、第5小委員会(録音・録画関係)の報告書においてその解釈が示されているが、同条は一般に拡大解釈されるおそれがあることに鑑み、これらについて規定上明確化することが望ましい。
3)ベルヌ条約第9条第2項但書又は現行法第35条・第42条但書に規定されているような著作権者の経済的利益を不当に害することとなる複製は許されない旨の規定を第30条に追加すべきであるという考え方もあるが、このことについては、第5小委員会において検討された家庭内録音・録画についての抜本的解決を図ることとの関連を考慮する必要がある。なお、家庭内における録音・録画問題についての抜本的な解決を図るため、制度面での対応が早急に必要であるという点については異論がない。
– 昭和58年9月 文化庁第1小委員会の審議結果について
時代の流れの中で私的複製という行為が一般化し、その境界線の曖昧さが大きく揺らぎ始めていたのでした。
パーソナルコンピューターは戦国時代へ
PC-8001から始まった日本のパーソナルコンピューターもNEC、富士通、SHARPを筆頭としたメーカーによる群雄割拠の時代が訪れようとしていました。
1981年(昭和56年)には世界的に大ヒットとなったIBM PCが発売になったり、国内ではPC-8001の上位機種として投入され後継機がホビーユースで80年代を席巻するPC-8801が発売されたり、SHARPと富士通からも有力機が出揃った1981年は日本におけるパーソナルコンピューターブームの元年とも言える年でした。
この時IBMがOSとして採用したのがMicrosoftの作ったPC-DOSでした。
MicrosoftはこれをMS-DOSとしてライセンス販売することで世界標準のOSメーカーへ成長していく事になります。
汎用機で圧倒的な力を持っていたIBMは宣伝攻勢と販売戦略でトップシェアの座をAppleから奪い取ってしまいます。
MicrosoftとAppleの長い戦いの歴史もここが始まりでした。
同年、NECはPC-6001を発売しています。
コンピューターミュージックという分野においては外せない機種です。
ホビーユース向けの機能を強く押し出していたためかPSG音源を搭載していたことと、BASICにTALKという命令があり、合成音声を発音することができたからです。
これについてはYoutubeの動画がありますので是非そちらも参照してください。
1982年(昭和57年)にはSHARPがパソコンテレビX1を市場に投入します。
この頃からSHARPのソフトウェア周りにハドソンが協力するようになり、X1でもHu-BASICというハドソンのBASIC言語を搭載していました。
同月発売の富士通のFM-7とSHARPのX1はサウンド機能としてPSG音源を搭載し、8オクターブ3和音を奏でる事が出来るようになっていました。
そして1983年にはPC-8801/8001用の拡張音源ボード GSX-8800がHAL研究所から発売されます。
PSG音源を2つ搭載し6和音出力が可能にしたこのボードの開発を行ったのは当時高校生であった藤本 健氏(DTMステーション主宰)と新入社員であった岩田 聡氏(後の任天堂社長)でした。
ホビーユースを中心にパーソナルコンピューターに対して「音」への要求が高まりつつありました。
内蔵音源とMMLによる演奏に光が差したのはこの頃からと言えそうです。
ゲーム黄金期の幕開け
1980年(昭和55年)5月、ナムコから世界中で大ヒットとなるパックマンがリリースされます。
1970年代から短期間で表現力が大幅に向上しゲーム音楽の面でも音楽らしいテーマが流れるようになりました。
後にアメリカではパックマンをモチーフにアニメや音楽が作られるなどの歴史的なキャラクターとなり80年代のミッキーマウスと呼ばれるようになっていきます。
1983年(昭和58年)にはビデオゲームの金字塔、ゼビウスをリリースします。
この頃になると単純なループではありますが、BGMが演奏されるゲームも多くみられるようになりました。
コンピューターゲームの歴史において音楽が鳴ったゲームはこれ以前にもありましたが、知名度とクオリティの面で新時代の幕開けを感じさせたのはやはりパックマンでした。
同年には任天堂からファミリーコンピューターが発売されます。
現代にいたるまで愛される家庭用ゲームマシンとなったファミリーコンピューターは僅か14,800円という低価格だったこともあり、ホビーユースのパソコンというジャンルを一掃するほどのインパクトを与えました。
この頃を境にパーソナルコンピューターの内蔵音源でコンピューターゲームの音楽を再現するという能動的なコンピューターミュージックというものが見られるようになっていきました。
(端的に言うとホビーユースの延長であった。)
MIDI規格の誕生とシンセサイザーの時代
1981年(昭和56年)、日本楽器製造(現:ヤマハ)、Roland、KORG等国内外の楽器メーカー6社により”MIDI 1.0 Specification”が策定されます。
翌82年(昭和57年)までにRolandを中心に規格化作業が進められ、10月にアメリカの音楽誌
KEYBOARDでver 1.0の仕様として公開されました。
83年のNAMMショーではMIDIを用いてProphet600とJX-3Pの接続デモが行われ、音楽制作における中核技術として今日まで生き続けています。
MIDIという共通言語を持った事で各社の製品は(多少の問題を起こすことはあれど)同列に扱えるようになっていきました。
同年には80年代を代表する音源として君臨することになるYAMAHA DX7が248,000円で販売が開始されています。
DX7にも勿論MIDI端子は搭載されていました。
DX7は実に10,000台を売り上げる大ヒットとなり、世界にFMサウンドを知らしめる事になります。
1980年代に突入するとパーソナルコンピューティングという新しい分野が急伸し、各社から続々と新機種が投入される戦国時代に突入しました。
この当時は機種間の互換性もなく、また音楽機能という面では使用される音源チップの限界が表現力の上限という状態が続いています。
1981年(昭和56年)におけるMIDI規格の策定は電子音楽の大きな転換点となりました。
これを機にMIDIという共通言語を持ったハードウェアシーケンサ、シンセサイザーなどが流通するようになり、制作環境の大きな変化を推し進めていく事になります。
この時点では電子音楽とコンピューター音楽の両者はまだ遠い場所にあり、ごく一部の工学に明るい者が自前のハードウェアとソフトウェアを開発して楽しむ(むしろ研究ではないだろうか?)状況でした。
ゲーム産業においては技術的な研究と蓄積、新しい機器などを積極的に取り入れていた事もあり、電子音楽という分野ではパーソナルコンピューターの一歩先を行く状況でした。
これはアミューズメントという特性上楽しさを追求する上で音の成す役割が大きかったからです。
またいずれの業界も黎明期の熱気と熱意のある技術者が中心にいた事も特筆すべき点かもしれません。
Appleはスティーブ・ジョブス、IBMが採用したPC-DOSはビル・ゲイツ、まだ新興であったHAL研究所には岩田 聡氏と誰もが知る名前がそこにはありました。
1982年(昭和57年)にはパソコンサンデーというテレビ番組も放送開始され、社会がパーソナルコンピューターの存在を一般的なものと認識していくことになります。
わずか3年足らずで70年代から大幅な変革をしてしまったように、普及の拡大と機能の拡充は時代に急かされるようにさらに加速していきます。
ユーザーの自由度が増し、新たな技術が身近になればなるほどに権利への意識が薄れて行ってしまったのは必然なのかもしれません。
次回は1980年中盤、コンピューターミュージックが産み出した天才たちの時代が訪れます。
一週間程度の間隔で更新を続けられればいいな、と思います。
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