失われた音楽文化、30年の時を越えて – Part4

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Photo by hasu from PASTELMETALIC

1980年代もいよいよ後半に差し掛かります。
85年のCX-5が浅倉 大介氏という天才を産み、同時期から執筆・楽曲提供を開始した古代 祐三氏など、今も活躍する方のルーツがこの時代にありました。

しかし、まだMIDIという言葉がシーンの中心にはありせんでした。
ハードウェアシーケンサーが未だ現役であり、コンピューターミュージックの世界はまだ手探りが続いている状態でした。

しかし87年になるといよいよ本格的にMIDIがコンピューターと密接に関わる出来事が起きます。
80年代の終わり、その時何が起きたのでしょうか?

MIDI音源 MT-32

Rolandは搭載メモリ量の削減をしつつより良い音を再現するためにLA音源という新しい仕組みを開発しました。
これは楽器などの特性を再現する際に特徴となるアタック部分を短いPCMとして再生し、サスティン部分にSineやSawを使って表現するというPCMとシンセのいいとこ取りを狙った音源でした。

1987年(昭和62年)に発売されたD-50がLA音源を搭載した最初のシンセサイザーとして登場し、それから半年後に登場したのがRoland MT-32でした。

アンケートやヒアリングでもMIDI音源と呼ばれるもので最初のヒットは1987年(昭和62年)発売のRoland MT-32という意見が多く見られました。
MT-32は当時の音源としては手にしやすい69,000円という価格で初のマルチティンバー機能を有していました。
80年代中盤で紹介したサンプラーがまだ高価であったことから分かるように、当時のメモリは高価だったため現在のシンセのように贅沢に波形を搭載することは出来ませんでした。

マルチティンバーは今では当たり前ですが当時は1音源で同時に多数の音色を出力できる機能を有した音源は少なく、尚且つ性能を限界まで使いきれるものはこのMT-32が初めてでした。
この音源により1台のパーソナルコンピューターと1台の音源で楽曲を完成させることができるコンパクトな環境構築が可能になったことで本格的にパーソナルコンピューターが音楽のツールとなり得る環境が出来るようになりました。

翌88年(昭和63年)にはMIDIインターフェイス・MT-32・シーケンスソフトをパッケージとして販売したミュージくんが大ヒットとなり、パッケージに書かれていた“Desk Top Music”という単語がDTMとして広く認知されることになりました。

このヒットの要因については今まで楽器は楽器店、パーソナルコンピューターはパソコンショップと分野が分かれていたところへ音源・ソフトが同梱されたパッケージとしてパソコンショップへ展開したことで劇的にユーザーが増えたという所感を聴いています。

89年(平成元年)、MT-32の後継機CM-32/CM-64もミュージ郎としてパッケージ展開したことで広く普及しました。

制作環境をプロデュースしたヤマハ

Rolandが普及帯を開拓しコンピューターと音楽を近づけようと努力をする中、ヤマハは歩みを一気に進めコンピューターミュージックではなくミュージックコンピューターを投入します。

85年のMSX規格のCX5とは異なり、今回はPC/AT規格のポータブルコンピューターでした。
豊富なMIDI I/Oを装備し、起動すると自動的に専用設計のシーケンサーが起動するなど完全なプロユースを意識した専用機。
それがYAMAHA C1でした。

価格は348,000円とお世辞にも安いとは言えない価格設定でパーソナルコンピューターとMIDIインターフェイス、シーケンサーまで搭載したオールインワンと考えれば決して高過ぎる価格設定ではなかったと思いますが、やはり割高感があったせいかYAMAHA C1が普及することはありませんでした。

御三家の時代

この頃になるとパーソナルコンピューターの勢力図はほぼ確定していました。

PC-98シリーズのNEC、X68000シリーズのSHARP、FMシリーズの富士通。
これらのハードは仕様がほぼ固まった事でソフトウェア資産がシリーズを通して使えるようになっていました。

ビジネスユースで大きくシェアを有しているPC-98シリーズは大きなアドバンテージがあり、ゲームソフトの他にもワープロやドローイングツールなど様々なソフトがリリースされました。

対してホビーユースのカラーが強くなってしまったX68000はアーケードゲームの移植などが多く独自の路線を突き進んでいきます。

FMシリーズは富士通のビジネス路線もあってか89年にFM-TOWNSが発売になるまでの時期の印象があまりありません。
しかし89年のFM-TOWNSで初のCD-ROMドライブ搭載機として高いマルチメディア性能を売りにしたことでDETAWESTのDetectiveシリーズ等のCD-DAや大容量を活用したフルボイスのゲームなどがリリースされるようになりました。

また、1989年になるとPCゲームとしてMIDIによる音楽再生に初めて対応した「38万キロの虚空」が発売されます。
これを皮切りにPCゲームの世界ではMIDI対応というゲームが出現するようになり、ホビーユース(リスニング中心)のユーザーが徐々に増加するようになります。

こうしてMIDI音源に関わるユーザーの数は飛躍的に伸びることになりました。

もう一つのコンピューターミュージック

1989年(平成元年)に梶原 正裕(かぢゃぽん)氏によるPMDドライバがリリースされます。
PMDはPC-98シリーズのサウンド機能を活用できる音源ドライバでした。
PMDは市販ゲームでも採用され(というよりご本人が作曲して提供していた)その名を轟かせることになります。

88版のPMD88などMML楽曲制作では絶大な人気を誇ったツールで、内蔵音源向けフォーマットとして一世を風靡しました。
後の東京BBSなどのポータルでは必ず見かけるフォーマットでした。

翌90年にはPMDと並んで人気を博すFMPも長井”Guu”理氏によりリリースされます。
PMDはかぢゃぽん氏のサイトで、FMPはVectorでそれぞれダウンロードが可能です。

X68000には標準でOPM(YAMAHA製のFM音源チップ)ドライバが提供されていましたが、MIDI制御は出来ませんでした。
88年にリリースされたmilk氏のMXDRV向けMDXデータはゲームミュージックのコピーが非常に多く、BBSでの交換が盛んに行われました。
その後MIDI音源と内蔵音源を同時演奏が可能なドライバとして西川 善治氏制作のZ-Music(ver 2.0の発売が1992年)、永田 浩之氏制作のNAGDRV(1991年発売)などが制作されます。

いずれもX68000では高い人気を博しますがX68000自体の普及率からファイルの交換という面では他よりも少なく、両氏が執筆していたマイコンBasicマガジンやOh!XなどでMMLリストが掲載されることがありました。

この他にもゲーム制作を行っている個人が制作したドライバなどローカルなものも多数存在しますが全てを網羅することはとてもできません。
これらはMIDI音源とは異なり内蔵音源をフルに活用する、チップチューン方面へと進化していきます。
結果的にゲームミュージックのコピーが多い傾向であったのは必然であったのかもしれません。

1988年にはパソケットがスタートし、そういった場で制作された音楽データが販売されるようになったのもこの時期でした。

ネットワーク社会のはじまり

87年、PC-VANの後を追ってNifty-Serveが開局されます。
二つの巨大ポータルが誕生したことでいよいよ個人によるネットワーク参加社会が始まることになります。

各地に分散したローカルなBBSも増加傾向にあり、規模の大小はあれど活発な交流が行われるようになっていました。
同年に草の根BBSとしては最大規模に成長する東京BBSも開局されました。

そんな1988年、電子ネットワーク懇談会が設立されます。
前身は1985年設立のビデオテックス懇談会であり、ネットワーク技術の利用促進を目指す活動を行っていました。

この当時の活動はパソコン通信の普及促進。
商用ネットの問題解決支援、公共・草の根ネットの交流を掲げています。

後に電子ネットワーク懇談会はJASRACと共に「音楽著作権の使用に関する実験」(実態調査) を実施することになります。

多くの人がテープレコーダーの気軽さで利用できるようになったネットワークの始まりに沸いている時代の裏側で、時代に即した権利の在り方を模索し続ける文化庁の小委員会とユーザーの利便性や問題に対し解決策を模索していく電子ネットワーク懇談会。

時代は静かに、でも確実に、自由に伴う責任と代償を求め始めていました。

80年代後期から90年初頭にかけて、各社のパーソナルコンピューターの仕様がある程度固まり後継機への資産継承が可能になってきました。
それに伴い音源ドライバなどのソフトウェアレイヤーによってファイルの互換性がある程度保たれるようになってようやく環境依存性の低い音楽ファイルの交換が可能になってきました。

80年後半あたりのMIDI事情としてはやはり一足早くリリースされたレコンポーザーのRCPファイルが存在感を強く示していました。
そしてDTM用音源としては最初のヒットとなる1987年のRoland MT-32の出現がMIDI音源とMIDIによる楽曲制作を普及させることに繋がりました。
当時のユーザー層の意見をうかがうと普及の理由としてはパソコンショップでも取り扱われたことが大きかったのではないかという声が多いです。

ここまでを俯瞰すると1980年代のMIDIの音楽という世界において支配的だったのはレコンポーザー(RCP)でありこの傾向は1990年代に入りスタンダードMIDIファイルが規格化され一般的になるまで継続することになります。

この頃のBBSにはJASRAC管理曲やゲームミュージックのコピーが流通するようになっていました。
ファイルの数も増加の一途にあり、この時点で消失したという体験談などは見つかっていません。
80年代中盤からようやく始まったパソコン通信、MIDI音源としては最初のヒットとなったMT-32が出現したのは87年になってからの事です。
これらを使用したデータが量産されるのは80年代終盤からで、80年代にはそもそも刈り取る土壌はまだ存在していませんでした。
またこの時点ではネットワーク上での演奏情報ファイルの扱いについて明確な規定は存在せず、何らかの請求を行う根拠もまた存在していませんでした。

だとすれば隆盛を誇ったこれらのデータがアトランティスのように消失してしまった理由は一体なんなのか?
さらに時計を進めて辿っていきたいと思います。

次回は1990年代へ、今では当たり前になったあのサービスがようやく登場します。

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みるくここあ
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ウィンドシンセを片手に曲を作っています、演奏するのも聴くのも好き。 ゲームとITと変な情報を拾ってくるのが得意。 色々とやっているらしいけど詳細はヒミツ。 オリジナル曲を公開しています。 http://www.nicovideo.jp/mylist/31704203 作曲風景の生放送もしています。 https://rainbowsound.cafe/rainbow-sound-cafe-live/ 音楽やDTMに纏わる話題を色々と書きます。

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