
GM規格の登場でMIDI音源は一気に扱いやすい物になりました。
1991年のゆいNET開局以降、パソコン通信におけるユーザーコミュニティが密度を上げたことでファイルの流通量は確実に増えました。
Part5では書き切らなかったパーソナルコンピューターと周辺事情から見ていきましょう。
DOS/Vの登場
1990年(平成2年)、日本IBMは日本語表示に対応したDOS/Vと称されるパーソナルコンピューターが発売されます。
世界のPC市場では圧倒的だったIBMですが、日本では80年代から日本語に対応ができておらず、御三家を中心とした日本メーカーの製品に全く通用しない状況が続いていました。
しかしこのDOS/Vの登場で今までNECの寡占が続いていたパーソナルコンピューター市場のバランスが変わります。
1991年から1993年にかけ、NECを除くパーソナルコンピューターを取り扱うメーカーがPC/AT(DOS/V)にシフトしたからです。
その理由は国産のパーソナルコンピューターは日本語環境故に輸出が出来ずコストが高止まりしていたのに対してPC/ATは世界のスタンダードだったため部品のコストが大幅に安かったことと、Windows 3系OSの登場により日本語にも対応したことで、低コスト・互換性に優れた環境が提供できるようになったからでした。
この変化は歓迎され、続くWindows95の時代には御三家として君臨した各社のシリーズ製品はその使命を終えることになるのでした。
内蔵音源の終焉
世界がPC/AT互換機に塗り替わるのと同時に各社のパーソナルコンピューターから消えたものがありました。
それは内蔵音源チップです。
かつて各メーカーが提供していたパーソナルコンピューターにはサウンド機能としてPSGやFM等のサウンド機能が搭載されていました。
これらの音源をドライブするためのドライバなども提供されMIDIとは別のサウンドを求めるユーザーも多くいました。
しかしPC/AT互換機にはその機能はなく、事実上標準であったSoundBlasterも92年にはCD品質のPCM音源を搭載、94年にE-Muの音源モジュールを搭載したSound Blaster AWE32を発売しFM音源をMMLで気軽に鳴らせる内蔵音源はここで途絶えてしまいます。
勿論国産のパーソナルコンピューターが消えてなくなってしまった訳ではないので引き続きMMLを制作してパソコン通信で公開する人はいましたが、それもWindows95の時代になると徐々に数を減らしていきました。
後に音源をエミュレートしたソフトウェアシンセが現れますが、その頃には表舞台から内蔵音源のファイルは姿を消していました。
1994年~1999年、この時期に内蔵音源のファイルは失われました。
インターネット時代へ
海外では1993年(平成5年)にインターネットブラウザ、Mosaicがリリースされた事でインターネットが本格的に普及を開始していました。
日本ではWindows95によって本格的にDOS/V(PC/AT)互換機が主流になり、1996年(平成8年)にはインターネットエクスプローラ Ver3がリリースされ、日本語でのブラウズ環境がとりあえず整いました。
1995年(平成7年)からサービスが開始されたテレホーダイの登場によってみかか(NTTを呼ぶ当時のネットスラング)料金も固定化できるようになったこともユーザーの増加に拍車をかけました。
この時点での日本のインターネットの人口普及率は3.3%(約420万人)であり、パソコン通信のユーザー数を越えています。
元々通信機器やパーソナルコンピューターに慣れ親しんだパソコン通信のユーザーのスライド移行の他、Windowsブームもあり一般に広く認知された事で新たな流入が多かった事が主な要因です。
この移行によりDOS/V(PC/AT)機が国内でも標準となり、パーソナルコンピューターはCD搭載、GUIが基本と認識されるようになりました。
統一規格の幻想
1991年にGM規格が出来たことでコンシューマー用途では再現性が確保される・・・と期待されていたMIDI音源の世界ですが、実際にはGM規格の提唱後に発売されたSCシリーズはGMを更に拡張したGS規格でした。
YAMAHAもGM規格の発表後に発売したSY、TGシリーズはGM規格に準拠せず、95年にMUシリーズを発表する時にはXG規格としてRolandのGS規格とは異なる拡張フォーマットの音源として発売しました。
完全な互換はないにしてもGM規格の発展ではあるのでとりあえず鳴らす事はできる、という状態ではありましたがMMAが期待したMIDIに基づく再現性を得る事は叶わず、GMという統一規格で音源をリプレースしても安定した再生ができるという状況はほぼ実現されることはありませんでした。
しかし各社はそれぞれの提案を継続し、結果的には1994年(平成6年)にはRolandから名機JV-1080が発売されます。
PCゲームなどでMIDI対応の多かったSCシリーズはコンシューマー向け、それ以外のハードウェア音源はDTM制作向けと明確に住み分けが進みました。
結局PCゲームとパッケージ製品の販売で普及台数が多かったSCシリーズはその後もスタンダードの座を譲らず、パソコン通信やインターネットで配布されるMIDIファイルはSCシリーズが基準のまま続いていく事になりました。
制作環境の向上
Windows95がスタンダードになった事でグラフィカルで直感的な制作環境が続々と登場することになりました。
現在でも継続しているSteinberg CubaseやMOTU DigitalPerformer等、海外のパーソナルコンピューターで人気だった環境がWindowsでは使用できるようになりました。
ミュージ郎のSinger Song Writerも国産の制作環境として健闘していました。
ところがパソコン通信の時代にはいち早く登場してファイルフォーマットでも定番の座を守っていたレコンポーザーが失速します。
Windows対応したレコンポーザーは初期の不具合が酷く、長く使っていた人も乗り換えるという事態に発展します。
後にリリース2として不具合の解消を行いますがその時点では既にほかに移ってしまったユーザーも多く、またWindows世代のユーザーにとってはレコンポーザーの数値入力型は直感的ではなく入りにくい事もあって売れ行きはあまりよくありませんでした。
また、Windows環境においてはスタンダードMIDIファイルが標準の環境で再生できるのに対し、RCPファイルはレコンポーザーとSinger Song Writerくらいしか再生が出来ないので、わざわざレコンポーザーやプレイヤーを使わなければならない煩わしさは新規のユーザーにとって理解しがたい物だったのだと思います。
Windows95の世代からはDTMの制作環境が直感的な操作のDAWに切り替わり、策定からおよそ5年を経過してようやく真にスタンダードなMIDIファイルとしてSMFが定着することになりました。
存在しなかった規定
1996年頃、佐々木 隆一氏は一つの実験的なプロジェクトを進行していました。
Yokohama Hot Jazz Internet’96-梅一輪と称し、ネットワークライブイベントを実施したのです。
佐々木 隆一氏は1978年にリットーミュージックを創立した人物であり、現CDC(一般社団法人 著作権情報集中管理機構)の理事長です。
ジャズギタリストの渡辺 香津美さんと菅沼 幸三氏らのミュージシャンに集まって貰い、渡辺さんのオリジナル曲をスタジオ録音し、さらに様々なパートのアドリブを複数のアーティストでスタジオ録音しました。
これらの音源をインターネットで配信を行うのですが、リスナーは自分のパソコンから好きなアーティストのパートを選択してセッションとして聞くことが出来るというものでした。
この時通信で音楽配信を行う場合の著作権使用料の規定が存在しないことに気が付いた佐々木氏はアメリカでの実情を調査しに向かいます。
そして、その結果をもって通産省・文化庁・JASRAC等と勉強会として検討を開始しました。
この後、ネットワーク配信での使用料などの交渉のためJEMSA(日本電子音楽ソフトウェア協会)という任意団体を立ち上げ、その結果関連企業が集い団体交渉窓口となっていきます。
JEMSAはその後、AMEI(社団法人音楽電子事業会)となりました。
(氏のインタビューによる解説ですが、AMEIの沿革を見るとJEMSAの設立年月は88年とあるので若干齟齬があるのかもしれません。)
AMEIの沿革によると、96年には通信カラオケの利用料規定を暫定合意しているので94年の全国カラオケ事業者協会設立時から交渉に参加していたと考えられます。
インターネット配信における使用料規定の交渉はJASRACとの交渉は電子ネットワーク協議会からNMRCに引き継がれ、佐々木氏はここでも世話人として中心的な役割を果たしていく事になりました。
Windows95の登場でDTMの世界は一変しました。
また、各社が販売していたパーソナルコンピューターはPC/AT規格へと変わり、一世を風靡した内蔵音源のファイル流通が途絶え、MIDIデータの交換では一般的になっていたRCPファイルもスタンダードMIDIファイルへと姿を変えました。
最大のキーマンであるCDC理事長、佐々木氏が登場しました。
96年に佐々木氏の行った実験の際にはJASRACにネットワーク上での演奏から使用料を取る規定は存在せず、法解釈の面でも具体的な指針が存在しない状況だったのです。
リットーミュージックは先進的な試みをしていて、パソコン通信の時代からM&A BBSというホスト運営を行っていました。
音楽と情報化の両側面を早い段階から見ていた佐々木氏が動き出した事で、ネットワークを巡る音楽著作権の検討には多くの団体が集うこととなります。
本格的なインターネット時代が幕を開けた事により、この頃から様々なネット上のログが保存されるようになりました。
資料とログを追いながら、次回は21世紀目前の1990年後半を辿ります。
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